鳥取大学附属中学校

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沿革

本校建学の精神

建学 「尚徳館」

尚徳館藩政が発足した当時は、現在の学校のような公的教育機関はなく、あるのは民間有志の私塾的なものだけでした。また、当時の教育は文よりも武を重視する傾向にあったようです。

しかし、17世紀の中頃から、藩校(各藩がその子弟を教育するために設立した学校・学館)が設立されはじめ、江戸中期になると全国的に増加しました。

鳥取藩も宝暦6年(1756)、旧附属校跡に学館を建てることになり、翌年2月1日に開館式を挙げています。学館の名称については、「興徳」「興譲」などが候補にあげられたようですが、「尚徳館」と命名されました。

「尚徳館記」 ~学館がめざすところ~

学館を開設して40年後に、初代の学館奉行(校長)箕浦文蔵の子どもである箕浦節山(徳胤)が「尚徳館記」を書いています。その中に、教育の目標は「維れ古を稽え、徳を尚び齢を尚べ」(尚…尊ぶ、齢…年齢)とあって、「聖人君主の言行を見習い、正しい生き方をすることにある。」としています。

また、「人生の経験者・年長者を尊重し、目上の人を敬い、年寄りを大切にせよ。必ずへりくだって譲り、家格(家柄)や禄高(給与の額)を鼻にかけるな。徳ある人にこそ従うべきで、学館の名も尚徳とする。」と記されています。

「学館がめざすところは、文を尊び武を磨き、人倫(人としてとるべき道)を正し、国の綱紀(規律)をひきしめようとするものであり、学生もその意を体して(心にこめて実行する)才器を大成すれば、学成って(教育も備わって)国家の用にたつことができるであろう。」と結んでいます。

「文武並(併)進」 ~学館の拡張整備~

旧校舎(県庁前) 嘉永4年(1851)に鳥取藩12代の藩主として就任した池田慶徳(よしのり)は、翌年に初入国し、全藩士子弟の人材養成のため、また「文武並(併)進」の考えのもとに学館の拡張整備にとりかかりました。

工事は12年間の年月を要しましたが、総面積2.4ヘクタールの尚徳館となりました。広大にして整然とし、一大偉観を呈したと言われています。
(旧附属小・中学校のプールとテニスコートを除いた面積は2.6ヘクタールでした。)

尚徳館の石碑 ~教育理念を後世に~

尚徳館の石碑尚徳館の機構改革が一段落すると、藩主池田慶徳は、尚徳館建設由来の教育理念を後世に伝えるため、自筆で石に刻んで、石碑を建てました。これが現在保存されている武家門後方にある尚徳館記の石碑です。
現在附属中学校にある尚徳館記の石碑は、この拓本を基に建立されたものです。

この尚徳館記には、次のような内容が書かれています。

尚徳館記

15代将軍徳川慶喜の兄池田慶徳は、このとき24歳でした。
しかし、この学館も、明治3年(1870)8月18日をもって、113年の歴史を閉じたのです。

沿革史

昭和44年 井上順理校長就任
昭和50年 越智春美校長就任
昭和51年 宿日直廃止,業者へ警備依託
昭和52年 創立30 周年記念式典挙行,校旗制定などの記念事業実施
昭和53年 昭和53 年 附属養護学校新設に伴い特殊学級を養護学校へ改組編入,学級数12,生徒数522,教官数22
昭和54年 倉信敏校長就任
昭和57年 福岡富雄校長就任
昭和59年 新校舎(湖山)起工
昭和60年 新校舎完成・移転
昭和62年 橋本隆校長就任
平成元年  入学生徒定員180 人を160 人に改定
平成3年  生徒用コンピュータ40 台設置
平成5年  細川哲校長就任
平成7年  山岸正明校長就任,放送設備更新,マルチメディアコンピュータシステム(生徒用20 台)設置
平成8年  附属小中学校用WWW サーバー,e-mail サーバー設置
平成9年  創立50 周年記念式典挙行,前庭整備などの記念事業実施
平成11年 油野利博校長就任,鳥取大学教育地域科学部附属中学校と改称,文部省研究開発学校指定研究校
平成12年 教育振興会を解散し,教育後援会結成,県福祉教育研究指定校(平成13 年度まで)
平成13年 文部科学省研究開発学校指定研究校発表大会,『未来を拓く小中一貫の新教育課程』
平成14年 〃 (継続)
平成16年 法人化・改組により,国立大学法人鳥取大学附属中学校と改称
平成17年 矢部敏昭校長就任
平成18年 普通教室冷暖房完全完備
平成19年 図書館改装完了,創立60 周年記念式典挙行
平成20年 ピア・サポート活動10 周年記念事業
平成21年 伊藤敏幸校長就任
平成23年 住川英明校長就任
平成25年 校舎部分改修(体育館・武道館等)
平成26年 平成26 年 入学生徒定員160 人を140 人に改定
平成27年 鶴崎展巨校長就任
平成31年 小玉芳敬校長就任
令和5年   霜村典宏校長就任

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